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はじめに
まちかど物語
水の文化からはじまるまちづくり

■近江八幡 むかしむかし
イラスト  むかし、近江八幡をふくむ湖東平野一帯は湖の底でした。沖島近くの湖底からは石器が、元水茎からは縄文時代の丸木舟が出土し、古くから人々がこの地に住んでいたことがわかります。やがて稲作が伝わり、大中の湖周辺では水田や集落の跡が見つかっています。全国で土地の区画が行われ、近江八幡でも篠田、船木、桐原と今でも呼ばれる「郷」が生まれました。八幡山を中心とした山のふもとは東南のわずかな丘地をのこして沼地であったため「大島郷」または「島の郷」とよばれました。4月14日・15日の八幡まつりはこれら十三郷の農民たちのまつりで、1000年以上の歴史があります。
 平安時代末期になると、各地の貴族や寺院が土地を持つようになりました。土地争いがひんぱんに起こり、この頃より武士の時代が始まりました。そんな中で近江の武士・佐々木定綱は1180年に源頼朝が伊豆で挙兵すると、父・秀義とともにこれに参戦し、数々の戦功をたてました。これにより定網は近江国の守護に任じられ、「観音寺城」を築き湖東地域は京都に宿所をおいた佐々木六角に約400年間支配されていくことになります。


■豊臣秀次のまちづくり
イラスト  近江は幾たびも戦乱に巻き込まれ、歴史の表舞台となりました。
 天正10年(1582)6月2日、本能寺の変で明智光秀に織田信長が討たれ、豊臣秀吉が天下を取りました。天正13年、秀吉の姉、「とも」の長男・豊臣秀次が、近江、神崎蒲生、野洲の三郡の領地、43万石の領主となり、八幡山に八幡城を築きました。
 縦12筋、横4筋(一部6筋)の町は、職人町、商人町、仲介商人町などと筋々を決めて整然とした碁盤の目状に整えました。戦いに備えて町を迷路化するのが普通ですが、秀次は交通の流れを考え、町の発展を第一に考えた区画整備をしたようです。また、町民に「八幡山下町中掟書13ヶ条」を公布し、楽市楽座として多くの特権を与えました。全長6kmの運河「八幡堀」を設けて、水陸の交通を利用するものはすべて八幡の町に入ることを定めたため、近江八幡には多くの人々が立ち寄り、色々な物資や情報が集まりました。秀次はわずか五年足らずの治政ではありましたが、商いの町としての繁栄の基盤を築いたのです。
イラスト  天正19(1591)年、豊臣姓を受け秀次は関白、秀吉は太閤となりましたが、秀吉と淀殿の間に秀頼が誕生したことによって、秀次の立場が悪くなっていきました。謀反のうわさが流れ、関白職を取り上げられ、28歳の時高野山青厳寺にて切腹させられました。その後、京都三条河原で一族もすべて処刑されました。まさに波乱万丈の生涯でした。
 しかし秀次のつくった町は毎日のように船や街道を利用して多くの人や情報、文化が入ってくるようになり、商業の町として活気に満ちていったのです。「城主がいなくても、自分達の力で頑張ろう」八幡の商人のバイタリティ溢れる活躍がはじまりました。


■八幡商人の活躍
イラスト  豊臣家の滅亡により天下は徳川家となり、八幡は江戸幕府の庇護をうけ商人達はますます力をつけていきます。
 徳川は朝鮮国との友好を重んじました。約200年間、12回に渡って朝鮮通信使が伏見から近江に入りました。西別院を中心に京街道で昼食をとり、彦根から江戸へと向かい、1回に約500人の使節団をむかえたのです。
 こうして、八幡は町民がおさめて運営する商業都市として生まれ変わり、江戸時代には八幡商人が全国を駆け巡ることになるのです。
 八幡商人は、近江商人の中でも古くから活躍しています。江戸に出店を開いたのも八幡商人がもっとも早く、京都・大阪・江戸以外にも北海道から九州、海外までも進出していきました。しまつしてきばる(節約してがんばる)など各家々に代々伝わる家訓(家の中でのきまり)を定め商売にはげみ、心の文化をつくりあげ、日本経済を支える大商人となっていたのです。


イラスト ■W・M・ヴォーリズの夢
 明治38(1905)年1月、ウィリアム・メレル・ヴォーリズがサンフランシスコから近江八幡へ入りました。ヴォーリズを迎えたのが滋賀県立商業学校(現:県立八幡商業高校)です。赴任後二年で、当時の教え子だった吉田悦蔵や村田幸一郎らと近江ミッションを形成し、近江に「神の国」をつくるという夢に取り組みました。
 明治40(1908)年、ヴォーリズ建築事務所を開設、ヴォーリズ合名会社を設立し、建築設計や伝道・教育・医療・出版と多彩な社会事業を展開し、県内をはじめ全国に偉大な功績を残しました。大正9(1920)年、家庭の常備薬メンソレータムの輸入販売を開始し、後に製造も始めました。昭和16(1941)年には日本国籍を取得しました。
 昭和39(1964)年、惜しまれつつ83年の生涯を閉じましたが、ヒューマニズムあふれる彼の建築物が今、注目を集めています。