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はじめに
まちかど物語
水の文化からはじまるまちづくり

■水の文化からはじまるまちづくり
 秀次は碁盤の目状に町を整備し、町民の生活を考えた町づくりをした。「八幡堀」「背割下水」など、水による文化を創りあげた。秀次の失脚した後、自分達の力で商業・町・生活を支えてきた八幡町民。徳川家の天下になると、八幡は江戸幕府の庇護を受けた。町民達は飲料水用の井戸をつくり、自ら管理運営をおこなった。これが古式水道と呼び、日本最古の上水設備として今も残っている。


写真 ■背割下水
 八幡堀は内堀であり、水路でありながら、生活排水が流れる河で、背割下水と言われて町のあちらこちらに残っている。街道の整備や町民の生活を第一に考えた秀次は生活排水や雨水を流す下水道の役割をする「背割下水」を作った。これは各町の境界ともなっている。


■古式水道
 秀次の失脚に続き、八幡山城の破却後、飲料水の確保のため、八幡の町民によって水道が整備された。築城の際に水道整備も行なわれるのが普通だが、八幡は開町間もなく破城となったため、おこなわれなかった。
 地形地質がらみで、生活用水の確保できる土地と難しい土地があったため、また、朝鮮通信使の来町の際、昼食休憩で多量の水を一時に確保する必要があったため作られたといわれている。
 水質が良好で豊富な地下水が得られる水源地に親井戸(元井戸)をもうけ、竹管を通し、各戸の取井戸、道端の共同井戸まで水を引き入れた。遠い水源地への水汲みや水売りに頼らずに手に入れられるようになる。
 親井戸より地中に竹の樋管を通して、その接続には枕と呼ぶ木製の角材のジョイントを用いた。また、接続部に槙の内皮を繊維状にした槙肌を打ち込み水が漏れない工夫をしている。この時代の他の地域の水道施設では、主に土管・石樋が多く使われていたが、八幡は他地域に比べ水道の規模が小さく水量も少ないこと、施工の簡単さ、コストの安さという点があったようだ。竹管は水道設備に適した材料だったようでつい最近まで八幡の町では使われていた。



写真 ■水の管理
 水道を利用する人は井戸組と呼ぶ組織をつくり、規約を定め、施設の設置や管理運営を行なった。井戸組は町からも役所からも独立した組織であり、町民による共同管理だった。涼料(水道使用料)を含む維持管理費を集め。改修・雨乞いの際には臨時徴集された。
 水源が枯れるのを防ぎ、水をみんなで平等に使うといった考えから、親井戸の水量を判断して、給水能力を計算し、井戸数を決めていた。
 また、清掃・改修も定期的に行なわれ大事にされてきた。「がわや(側屋)」と呼ばれる井戸専門の職人によって年に一度、取井戸の清掃が行なわれた。道に埋められた樋管は年2回清掃が行なわれていた。
 このように八幡の町では水を貴重なものと考え、末永く守り運営・管理を行なってきた。町民の運営自体が“まちづくり”の重要なポイントとなり、今も歴史・文化として残っている。